言葉を失った瞬間が一番幸せ

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町山さんの話は面白すぎる

 いつからかは忘れたが、「話を聴きたくてたまらない、しょうがない」人は、自分にとっては、映画評論家の町山智浩さん(当然赤の他人、面識なしだが、ついそう呼びたい)がそうだ。いや、本当に話がめちゃくちゃ面白いし、知ることは多いし、なんかあの独特の声を聞かないと落ち着かないくらい。どんな大学の講義よりも、興味深く、熱心に、長く話を聴いたことは確かだ。当然、『映画の見方がわかる本』、『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』、『トラウマ映画館』など、著書もほとんど読んでおり、いずれも素晴らしい。

 昔、日垣隆が、町山さんとツイッターで論争になった際、「町山信者が俺を攻めるんだ!」みたいな、被害妄想というか、めちゃくちゃなことを言ったが、まあ町山信者は少なくはなさそうだ。実際、著名人では、水道橋博士樋口毅宏がいる。最近では、南海キャンディーズの山ちゃんがそうなりつつある。岡田斗司夫は、最近社長が社員から給料(月1万円)をもらう(!)FREEexという、やや怪しい組織を行っていて、町山さんもそうするべきだと言ったが、確かにかなりお金が集まりそうだ。

 町山さんは、アメリカの社会事情や、本業の映画についてなど、本当に、話の引き出しは多いし、ためになる。リズム、抑揚のある話し方は聴きやすいし、内容にはちゃんとギャグ、ネタ、オチがあるし、映画の話では、あらすじを簡潔に話、どこがいいか、悪いか、どうすればいいかまで話してくれる。何より、あのやや高くて、かわいい(?)声が人気の秘訣なのかもしれない。人の声はけっこうその人の印象、好感度を左右する。余談だが、先日ラジオで、ドワンゴ川上量生会長の声を聞いたら、京大卒なのに、まあ・・聞いてみてほしい。

 それにしても、芸能人ではなく、素人?(ではないか)で、あれだけしゃべりまくってる人はいないだろう。もはや、落語家、講談師、漫談家レベル。町山さんがブレイクしたのは、「ストリーム」(聞き手小西克哉松本ともこ)からで、あの番組以来、「キラキラ」(小島慶子水道橋博士)、「たまむすび」(赤江珠緒、山里亮太)とTBSラジオお昼の番組に7年くらい出ずっぱりだ。それだけ人気があるんだろう。ちなみに、自分としては、ほどよく知識があって、反応がある、今の赤江、山里の聞き手が一番好き。松本は、リアクションがいいけど、小西は、あまり話を聞いていないし、小島は出しゃばりで、水道橋は知ったかぶりが鼻につく。

 なにしろ、前述のラジオ番組に加え、WOWOWの映画解説「映画塾」やエンタージャムの「映画特電」(自宅で録音!)など、一人でしゃべった音声がこれだけネットにある人なんか他にいるのだろうか。そこで、自分が特に面白かったものを挙げる。

 「ストリーム」では、当時「オプラ・ウィンフリー・ショー」で暴れたり、パラウマントをクビになったりした、トム・クルーズの話。トムは、サイエントロジーという、怪しい宗教の信者として有名だが、サイエントロジーの爆笑の教義とは?前振りが長すぎて、時間切れで、なんと2週連続!

http://www.nicovideo.jp/watch/sm6920055

 「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」では、やっぱり「20世紀少年」の回と「劇場版虫皇帝」(!)の回。前者は、自分は不明ながら、ヒットしてるし、てっきり面白いのではと勘違いしていたが、実は迷作だとよくわかった。演出、演技などの問題点を指摘した上に、話はどうするべきかまで提案するのはすごい。後者は、話芸の真骨頂。ただ昆虫が戦うだけの映画をここまで面白く話せるなんて。それでも、見たくないけど(笑)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm6245160

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8268853

 「映画特電」では、「ソーシャルネットワーク」の解説がすごかった。1時間もかけて、この映画の何がすごいのか、どのようにして作られたかを、元ネタの映画も含め、徹底解説。見てから聞くようにとあったが、自分は聴いてから、見てしまった。見る前は、まあいかにも、「プロジェクトX」のような、フェイスブックの創業・成長秘話、サクセスストーリーだと思ったが、大間違いだった。「ソーシャルネットワーク」は、誰からも理解されない、愛されない哀しい男が、あれよあれよと企業し、成功してしまう物語だったのだ。

http://enterjam.com/?eid=1760#sequel

 まだまだ、YOUTUBEやニコニコには、町山さんの動画がいくらでもあるので(何せラジオは7年分!)楽しみは尽きない。聴きまくれば、すっかりあなたも町山信者に。

 

 

 

 

 

 

郊外に住みたい?

 昔、ハリー・ポッターの劇場版第一作、「ハリー・ポッターと賢者の石」を見た際に、少し違和感を感じた。主人公のハリーが、両親を失い、預けられる親戚のダーズリー家の描写である。確か、ダーズリー家はドリル会社を経営している大金持ちなのだが、やたら田舎の、郊外のずらっと似たように並ぶ建売住宅に暮らしている。金持ちは、通勤に便利な都心部に暮らすものではないのだろうか?

 そんなこともすっかり忘れた頃、大学で、社会学を学ぶと、バージェスの同心円地帯理論に、出会った。いわく、都市は中心から外部にかけて、貧困な家庭から富裕な家庭が住むようになるそうだ。鉄道網が高度に充実、発達した東京では、いささか成り立たず、イメージとかけ離れるが、イギリスのダーズリー家は同心円地帯理論に忠実な家庭だったのか。

 しかし、それでもダーズリー家は、少し時代錯誤的ではあるのである。誰もが住みたい、憧れの郊外というイメージは、ハリー・ポッターが現れる頃には、とうに消えうせていたと思う。特に郊外は、画一的、同調的な空間であり、住民は精神的に病んでいるのではないか、と。

 郊外の偶像破壊は、今までに何度も映画においてなされてきた。私が観賞したものに限って、挙げるとすれば、ハリー・ポッター以外に、「ブルーベルベット」、「シザーハンズ」、「アメリカン・ビューティー」がある。

 「ブルーベルベット」では、1950年代風のあまりに美しく、健全なアメリカの郊外の裏におぞましき真実が隠されている。少年ジェフリーは、偶然路上で人の耳を拾う。それは、ギャングのフランクによって監禁された、歌手ドロシーの夫の耳だったのである。ドロシーは、フランクに夫を人実に、為すがままになっている。ジェフリーは、事件を追うと、住みなれた町の暗部を知ってしまう。まあ、さすがにここまで腐ってはいないだろう。

 主人公が、はさみ男と聞き、てっきりおとぎ話のように、舞台は中世だと思っていたが、「シザーハンズ」の舞台は、あまりにも現実的なアメリカの郊外だったので意表を突かれた。はさみ男エドワードは、主婦たちの美容師、庭師として、一時住民に受け入れられるが、誘惑を拒んだことを逆恨みした主婦が悪評を流したことや、強盗の濡れ衣を着せられたことで、排斥、追放される末路をたどる。いずれも郊外ゆえではないか。つまり、当初は画一的な郊外にとっては新顔は物珍しいが、結局余所者は、そこに居続けることはできない。

 一見平凡な郊外の家庭も、容易に崩壊される危険を含んでいる。「アメリカン・ビューティー」では、当初より家族はぎすぎすしている。しかし、父は、会社を辞め、娘の友人に欲情し、母は不動産王と不倫し、娘は隣家の異常な少年と惹かれあう。隣家も、右翼的な軍人の父に抑圧された息子は、盗撮に熱中し、麻薬を売買までしている。本作で、父役の俳優は、アカデミー賞を受賞しているが、悲惨でありながら滑稽な演技が評価されたのではないか。父は、娘の友人を思いオナニーをし、体を鍛え、隣家の少年とゲイ関係と誤解される。いずれも、思わず笑ってしまう。

 郊外の映画と言いつつ、「普通のひとびと」も「アイスストーム」も、ドラマだが、「岸辺のアルバム」も見ていないのかと思われそうで、まだまだ見なければならない映画は尽きない。「岸辺のアルバム」は15回もあるから、さすがに大変だが。

 郊外に、少し興味があり、何冊か本も買ったが、いずれも未読、積ん読。若林幹夫『郊外の社会学』、三浦展『東京は郊外から消えていく!』、宮台真司『まぼろしの郊外』、川本三郎『郊外の文学誌』など。他に大場正明『サバーピアの憂鬱』が、まさに映画を題材に、郊外を論じているが、絶版で入手困難。

 結局、都会で暮らすには、「広い」・「近い」はジレンマだろう。「広い」・「遠い」、「狭い」・「近い」のどちらかを選ばなければならない。今後、自分が東京で暮らすにはどちらを選ぶのだろう。バブル前・中・後の東京の住宅事情は、昔から読んでいた『こちら葛飾区亀有交番前派出所』の、何話かある、寺井が家を探す話で、いつしか学んでいた。寺井は、いつも羽生などのインチキ不動産屋に騙されてしまうのだ。

原田宗典をひさびさに読みなおそうと思った。

 作家の原田宗典が、覚せい剤所持の容疑で逮捕された。最近、原田は新刊もあまり出しておらず、ひさびさに名前を聞いた方も多いだろう。最近は、だいぶおそくデビューした、妹の原田マハの方がずっと売れている。山本周五郎賞も受賞し、じき直木賞も受賞しそうだ。もはや、「原田マハは、原田宗典の妹」から、「原田宗典は、原田マハの兄」に変わりつつある。

 1990年代、30歳代の原田は売れっ子作家だった。実際、古本屋でも、当時の古い版の集英文庫、新潮文庫ばかりが並んでいる。ネットでは、高校時代に読んでいたとの声が多く見られた。現在、当時の原田と同じ年頃になっている。

 自分は、世代はだいぶ異なるが、それからおよそ10年後の高校時代原田の愛読者だった。原田の本を、家でも学校でもよく読んで、笑っていた。あまりによく読むので、もはや他人とは思えず、知り合いと思っていたくらいだ。

 ところで、自分も含め、多くの読者は、原田のエッセイの読者だ。自分は、小説は一冊も読んでいない。「スメル男」や「平成トム・ソーヤー」などの少しSF的な異常の状況の小説には、興味が持てなかった。作風のせいもあるだろうが、文学賞には一切縁がなく、ニュースで述べているように、すばる文学賞佳作しか受賞していない。

 読んだ原田のエッセイを、挙げれば、主に「スバラ式世界」、「十七歳だった!」、「わがモノたち」、「はたらく青年」などがあり、懐かしい。一番最近では、「私は好奇心の強いゴッドファーザー」を読んだ。映画と共に、亡き父の思い出を描いた名エッセイだった。

 原田のエッセイは、いつも原田のとほほな失敗談、経験談ばかりだ。しかし、原田は、文章、言葉を使って、それらを思わず吹きだす、笑ってしまう話に変えて、多くのエッセイを生み出してきた。

 ただ、自分たち読者は、それらを笑うだけではなく、それらから学んでいた。「失敗してもいい、だめでもいい、それはネタになるから」と。以来、高校時代から、自分は面白くもないくせに、原田のまねをして、やたら、失敗話、自虐話ばかりしている。周囲は、しらけていただろうが、自分としては開き直って、少し楽になった。

 原田は、私小説家としての方がよほど素質があったのかもしれない。昔の経験をあれほど、詳細に、かつ面白く語れるのだから。特にしばしば語る放蕩の父親の話は、十分な題材になりそうだ。しかし、それらのネタは、エッセイに使わざるを得なかったのかもしれない。だからか、小説は、逆にだいぶ現実離れしてものばかりだ。エッセイストとしての活躍は、小説家としての活躍を閉ざしてしまったのだろう。

 中島らもも、大麻所持で逮捕されたが、その経験を『牢屋でやせるダイエット』として、開き直って書いている。原田も、逮捕という、とほほな出来事を作品に昇華してほしいと思う。それを願って、ひさびさに原田のエッセイを買った。