言葉を失った瞬間が一番幸せ

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郊外に住みたい?

 昔、ハリー・ポッターの劇場版第一作、「ハリー・ポッターと賢者の石」を見た際に、少し違和感を感じた。主人公のハリーが、両親を失い、預けられる親戚のダーズリー家の描写である。確か、ダーズリー家はドリル会社を経営している大金持ちなのだが、やたら田舎の、郊外のずらっと似たように並ぶ建売住宅に暮らしている。金持ちは、通勤に便利な都心部に暮らすものではないのだろうか?

 そんなこともすっかり忘れた頃、大学で、社会学を学ぶと、バージェスの同心円地帯理論に、出会った。いわく、都市は中心から外部にかけて、貧困な家庭から富裕な家庭が住むようになるそうだ。鉄道網が高度に充実、発達した東京では、いささか成り立たず、イメージとかけ離れるが、イギリスのダーズリー家は同心円地帯理論に忠実な家庭だったのか。

 しかし、それでもダーズリー家は、少し時代錯誤的ではあるのである。誰もが住みたい、憧れの郊外というイメージは、ハリー・ポッターが現れる頃には、とうに消えうせていたと思う。特に郊外は、画一的、同調的な空間であり、住民は精神的に病んでいるのではないか、と。

 郊外の偶像破壊は、今までに何度も映画においてなされてきた。私が観賞したものに限って、挙げるとすれば、ハリー・ポッター以外に、「ブルーベルベット」、「シザーハンズ」、「アメリカン・ビューティー」がある。

 「ブルーベルベット」では、1950年代風のあまりに美しく、健全なアメリカの郊外の裏におぞましき真実が隠されている。少年ジェフリーは、偶然路上で人の耳を拾う。それは、ギャングのフランクによって監禁された、歌手ドロシーの夫の耳だったのである。ドロシーは、フランクに夫を人実に、為すがままになっている。ジェフリーは、事件を追うと、住みなれた町の暗部を知ってしまう。まあ、さすがにここまで腐ってはいないだろう。

 主人公が、はさみ男と聞き、てっきりおとぎ話のように、舞台は中世だと思っていたが、「シザーハンズ」の舞台は、あまりにも現実的なアメリカの郊外だったので意表を突かれた。はさみ男エドワードは、主婦たちの美容師、庭師として、一時住民に受け入れられるが、誘惑を拒んだことを逆恨みした主婦が悪評を流したことや、強盗の濡れ衣を着せられたことで、排斥、追放される末路をたどる。いずれも郊外ゆえではないか。つまり、当初は画一的な郊外にとっては新顔は物珍しいが、結局余所者は、そこに居続けることはできない。

 一見平凡な郊外の家庭も、容易に崩壊される危険を含んでいる。「アメリカン・ビューティー」では、当初より家族はぎすぎすしている。しかし、父は、会社を辞め、娘の友人に欲情し、母は不動産王と不倫し、娘は隣家の異常な少年と惹かれあう。隣家も、右翼的な軍人の父に抑圧された息子は、盗撮に熱中し、麻薬を売買までしている。本作で、父役の俳優は、アカデミー賞を受賞しているが、悲惨でありながら滑稽な演技が評価されたのではないか。父は、娘の友人を思いオナニーをし、体を鍛え、隣家の少年とゲイ関係と誤解される。いずれも、思わず笑ってしまう。

 郊外の映画と言いつつ、「普通のひとびと」も「アイスストーム」も、ドラマだが、「岸辺のアルバム」も見ていないのかと思われそうで、まだまだ見なければならない映画は尽きない。「岸辺のアルバム」は15回もあるから、さすがに大変だが。

 郊外に、少し興味があり、何冊か本も買ったが、いずれも未読、積ん読。若林幹夫『郊外の社会学』、三浦展『東京は郊外から消えていく!』、宮台真司『まぼろしの郊外』、川本三郎『郊外の文学誌』など。他に大場正明『サバーピアの憂鬱』が、まさに映画を題材に、郊外を論じているが、絶版で入手困難。

 結局、都会で暮らすには、「広い」・「近い」はジレンマだろう。「広い」・「遠い」、「狭い」・「近い」のどちらかを選ばなければならない。今後、自分が東京で暮らすにはどちらを選ぶのだろう。バブル前・中・後の東京の住宅事情は、昔から読んでいた『こちら葛飾区亀有交番前派出所』の、何話かある、寺井が家を探す話で、いつしか学んでいた。寺井は、いつも羽生などのインチキ不動産屋に騙されてしまうのだ。